ラベル 王家の人々 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 王家の人々 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年6月1日月曜日

郵便ポスト


イギリスの生活に昔から欠かせなかったのはパブの存在です。
小さな村にもパブがあってそのコミュニティーの中心となっていました。
最近は毎年いくつものパブが経営難から閉めてしまうそうで、残念な限り。

パブは宿屋として使われることもありました。
大きなところでは「コーチイン」と呼ばれて代馬が常備されていたり、ミニ劇場のように観客を収容できるところもありました。

切手の制度が法制化する1840年以前からイギリスには私立の飛脚制度があって、パブではその取次ぎなんかも行っていました。

ちなみにその時に馬をつないだパブの前の杭を「ポスト」と呼んだわけです。
今私たちが手紙を投函するのも「ポスト」。
面白いでしょう?
実際パブの近くには、必ずといっていいほど郵便ポストがあります。

最近は取り除かれてしまっているケースがほとんどですが、ポストをよく見ると曜日の小さなプレートや(取り除かれたものは)プレートのための枠が目に入ります。
大きさは5cm角くらい。
郵便屋さんがその日の最終集配のときにこのプレートを取り替えます。
なので、投函する人はその手紙が翌日配達(基本的にファーストクラスは翌日配達)されるかどうかがわかるという仕組みです。

イギリスのポストにはロイヤルサイファーという、作られた時代の王様や女王様のイニシャルが刻まれています。
一番古い VR(ヴィクトリア女王)から EIIR(エリザベス女王)までが表になっています。

一番新しいものは CIIIR (チャールズ3世)なんですが、数がとても少ないので私は見たことがありません。



この写真は上に写真を載せたパブ White Swan のすぐ横にあるポスト。

投函口の上の部分にV 王冠マーク、そしてRと書かれています。
なので、ヴィクトリア女王時代のもの。

円柱タイプのものもよく見かけます。
ウインザー城の近くには緑色のもあります。

ウインザー城の中にはヴィクトリアの息子、エドワード7世のポストが。
お母さんが長生きしたので、お爺さんになってから王位につきました。
だから王様だったのは1901-1910だけ。

そのあと王様になったのはジョージ5世。
その時代のポストにはGRと書かれています。
結構よく見ます。
珍しくはない。

逆に見かけることがほとんどないのはその息子エドワード8世のもの。
シンプソン夫人と結婚するために、王位を捨てた王様。
1年しか王様じゃなかったので、英国に約130個しかありません。
実は私はまだ見たことがありません。
ロンドンには10個あるらしいので、そのうち探してみることにします(笑)

さて、英国王のスピーチで有名になったジョージ6世のもの。
彼はエドワード8世の弟で、エリザベス女王のお父さんです。
ジョージ5世のものはGRと書かれているだけ。
6世のはG と R の間にVI(6)が入ります。

そして、最もよく見かけるのがエリザベス2世のもの。
イギリス国内に11万5千の郵便ポストがあるそうですが、その半分以上がエリザベス2世。

さてそれではちょっと面白いポストを紹介しましょう。
これです。


どこがおもしろいの?って思いますよね。
何の変哲もない、ふつうのポスト。

でもよく見ると、ロイヤルサイファーが入っていないんです。
このポストは Anonymous(匿名)ポストボックスとよばれています。
Andrew Handyside という人が、1879 年から 1883年の間に製造したもので、普通なら入っているべき POST OFFICE と VR が入っていません。
間違いに気が付いたときにはすでに手遅れ。

それがそのまま残っているのがイギリスっぽいですね。
「まっ、いいか」って感じ。
日本だったら絶対に撤去されてるだろうな~。
こういったユルイところがイギリスの魅力の一つだと思います。

あちこちにある英国の郵便ポスト。
是非、いろんな種類を探してみてください。
形やスタイル、色や時代など本当にさまざま。

チャールズ3世のポストは新しく設置というよりは古くて壊れたのものを修繕しているそうなのでそのうち少しずつ見かけるようになるかも。
楽しみだなぁ!

 


次回の更新は6月8日です!

イギリスの政府公認観光ブルーバッジガイドについては私のウェブサイトをご覧ください(リンクします)

2026年5月11日月曜日

英国国教会ができたわけ



「イギリスの王座に就いた人を挙げなさい」って聞かれたら、皆さんは何人名前を挙げることができますか?

多分エリザベス女王とヴィクトリア女王、そしてヘンリー8世あたりが上位を占めそう。
もしかしたらウイリアム征服王も入るかも。

私の知っているイギリス人は、けっこう歴史に詳しい人が多いんだけど、それでもウイリアム征服王から現在のチャールズ3世に至るまで、ちゃんと順番通りに言える人を今まで見たことがありません(もちろんガイドのお友達は別)
それはイギリスの教育が良くないせいって文句もよく聞きます。

順番で覚えるより特徴のある人が覚えやすいですよね。

この窓はハンプトンコート宮殿のグレートホールにあるもの。

中央に立っているのはイギリスで一番有名な王様のひとり、ヘンリー8世。
イギリスの小学校で、必ず勉強する王様です。

英国国教会を作った王様。
そして、6人のお妃さまがいた王様。
一度に、じゃないですよ。
次から次に、です(笑)

ヘンリーの両脇には左に3つ、右にも3つ、王冠の付いた紋章。
これらは彼のお妃たちの紋章です。

左から、結婚した順に並んでいます。
一番初めはスペインのお姫様、キャサリン・オブ・アラゴン。
20年以上も一緒にいました。
家柄もばっちり。
当時ヨーロッパで一番の権力を誇っていた、ハプスブルグ家のカール5世の親戚です。

でもこの二人の間で、ちゃんと育った子供は女の子ひとり。
のちのメアリ1世です。
なので、男の子が欲しいヘンリーは悩みます。

実はヘンリーは皇太子ではなかったのです。

お兄さんにアーサーという人がいました。
アーサーが王様になって、ヘンリーは教会の世界に入るというのが、お父さんヘンリー7世のプラン。
キャサリンはそのアーサーのために選ばれた花嫁だったのです。
ところが結婚後半年もたたずにアーサーが亡くなってしまいました。
彼女はそのまま次男であるヘンリーと結婚したわけ。

結婚した時は、6歳年上で面倒見のいい姉さん女房。
それがどんどん色あせて見え始め、浮気もいろいろしてみます。
死産があったり流産が続いたりしたうちは、まだ僅かな望みもあったものの、
そのうち諦めをつけないといけない年齢になりました。

「キャサリンと別れた方がいいのかなぁ…」

気に入った王妃の侍女アンからは
「結婚してくれないなら、お付き合いできません」と言い切らたことも、そう思い始めた原因の一つ。
とうとうヘンリーはローマ法王にキャサリンとの結婚の無効を申し出ます。

理由は兄嫁だったから。
聖書の中に、兄弟の嫁と結婚するなと書かれているらしい。

この当時のローマ法王はメディチ家のクレメンス7世。
彼は度重なるヘタな政治でカール5世を怒らせてしまい、
カール5世の捕虜のような生活をしていました。

なので、カール5世の親戚であるキャサリンに不利な決定などできるわけがなかったんですよね。
そうじゃなければ、お金のために何でもやったルネッサンスの法王のひとりだから、何とかなったと思います。

埒が明かないと思ったヘンリーはカソリックからの離脱を決意。
英国国教会を設立します。

そして、国王至上法(ローマ法王よりも自分が偉いという法律)を元に、キャサリンとの結婚を無効にしてしまいます。

キャサリンは英国の元王妃という肩書は受け取れず、
英国の元皇太子妃(皇太子アーサーの未亡人)という肩書で満足しなくてはいけませんでした。


ハンプトンコート宮殿のチャペルロイヤルへの入り口近くには、とても面白い絵がかかっています。
鮮やかな色がないので、目立ちません。

こういった白黒の絵は彫刻を思い起こさせるように描かれました。
ところどころに金が使われています。
4人の男性が、いい身なりのお爺さんに石を投げつけています。

4人は聖書を書いた福音書記者。
左からヨハネ、マタイ、ルカ、そしてマルコです。
それぞれが持っている石に名前が書かれていて簡単!(笑)

身なりのいいお爺さんは、その帽子からローマ法王だと分かります。
彼の両隣には女性がいて、それぞれに強欲と偽善と書かれています。


絵の左上にはエルサレムの町に新しい明りが灯されて、それはキリスト教の新しい時代の到来を表しているのです。

描いたのはジロラモ・ダ・トレビーゾ。
ヘンリ8世につかえていた画家のひとり。
英国国教会設立後、カソリック批判を広めるために描かれたのでしょう。
ヘンリーはこんな絵を毎日眺めて自己満足に浸っていたのかもしれません。


次回の更新は5月18日です!

イギリスの政府公認観光ブルーバッジガイドについては私のウェブサイトをご覧ください(リンクします)

2026年3月23日月曜日

悪魔嫌いの王様



徳川家康が征夷大将軍になったのは1603年のこと。
江戸時代のはじまりです。
ここまではみんな知っている。

でも日付まで言える?

それは3月24日のことでした。

この日付、1603年3月24日というのは、イギリスのエリザベス1世が亡くなった日と同じなんです。
彼女の時代はイギリスではチューダーとよばれる王朝。
独身を通したエリザベス1世には直系の跡継ぎがいないので、いとこの子供が王家を継ぐことになりました。
チューダー王朝は彼女で最後、次はスチュワート王朝です。

スチュワート朝がチューダーほど人気がないのは個性的な君主に欠けるからかも。
そう思う人もいるかもしれません。
お妃さまを6人ももって、うちふたりを処刑したヘンリー8世や、カソリック信仰のためにプロテスタント信者を次々と火あぶりにしたメアリ1世、海賊たちを手下にしてスペインの無敵艦隊を破ったエリザベス1世など、有名な君主といえばチューダー時代です。

でもスチュワート時代に身勝手で猟奇的な君主がいなかったわけではありません。
スチュワート朝の初代王はジェームス1世という人で、スコットランドのジェームズ6世と同人物。
彼は魔法を信じていた人で、イギリス王になる以前に「悪魔学」という本まで出版しています。
魔女は悪魔信仰だと考えて、魔女裁判にもかかわりがあります。

彼の妃はデンマークのアン王女、彼女がお嫁入りの際、彼はデンマークまでお迎えに行くのですが、嵐で散々な目に遭います。
それは自分に反対する勢力が魔女を雇って起こした嵐だと考えた彼は魔女裁判で何十人もの女性を逮捕したりしたことで知られます。

エディンバラの東海岸にノースべリックという小さな町があります。
海辺の鄙びた寒村に見えるかもしれませんが、以前はセントアンドリュース大聖堂に行く巡礼の旅人たちが船出する場所として賑わっていました。
その海沿いの教会が魔女の集会所だというのです。
魔女裁判にかかった人たちは約70人(一説によれば200人とも)
そのほとんどが当時の魔女裁判にはつきものだった拷問を受けています。
拷問を受けて「魔女だ」と自白すれば火あぶり、頑なに否定すれば拷問死が待っていました。
魔女とみなされたほとんどの人たちはひとり暮らしで生活に困って薬草を売ったりおまじないをしたりする社会の弱者だったと言われています。
ジェームス1世がイングランド王に即位した後はイングランドでも魔女狩りが盛んになっていく時代を迎えました。

ただし、スコットランドとは違って、イングランドでは魔女の処刑は絞首刑という違いがあります。
ジェームス1世の時代、有名な戯曲家シェークスピアはマクベスやテンペストといった魔女ものを書いているのは偶然ではないと思います。